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小寺精神分析研究財団の学際的ワークショップがもとになった、藤山直樹・十川幸司編『精神分析のゆくえ:臨床知と人文知の閾』(金剛出版)11月初めに刊行されます。私も「精神分析の「幼年期の終わり」」という文章を書かせていただきました。目次等はこちらをご覧ください。

10月2日(日)の13時から17時まで、ハイブリッド形式で行われる小寺精神分析研究財団の「学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』」の第7回「21世紀のエディプス―われわれはまだこの概念を必要とするのか?―」にて発表を行います。演題は「《エディプス》と性別化、あるいは異なった手段による「幼児の性理論」の継続としての性差」を予定しています。ワークショップの詳細についてはこちらをご覧ください。

4月に続いてHMCオープンセミナーの第二回目「ジャック・ラカンによる「言語」」を9月30日にオンラインで開催することになりました。HMCのサイトでも9月19日月曜日には情報が公開されるようですが、申し込み登録はチラシのQRコードまたは下記リンクからすでに可能になっていますので、どうぞご利用ください。皆様のご参加をお待ちしております。

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第83回HMCオープンセミナー「ジャック・ラカンによる「言語」」

【日時】2022年9月30日(金) 17:30-19:30

【場所】 オンライン (参加登録はこちら

【登壇者】

報告者:原和之(東京大学大学院総合文化研究科教授)

ディスカッサント:立木康介(京都大学人文科学研究所教授)

【概要】

 20世紀フランスの精神分析家ジャック・ラカンによる精神分析の再定義の試みは、その定義を基礎づけるより一般的な二つの概念、「こころ」と「ことば」の根元的な問い直しと共に進められてゆきました。このうち「こころ」の問い直しをとり上げた第1回に続き、第2回となる今回は、ラカンが「ことば」をどのように異なった仕方で考えようとしたかを見てゆきます。

 1950年代のフランスで、精神分析の新しい姿を提示すべき立場に置かれたラカンが、精神分析という営みの基礎をなすものとして注目したのが「言語」の次元でした。治療の中で言葉が持つ力については、精神分析の創始者であるフロイトがすでに繰り返し指摘していますが、それが主題化されるのがフロイト以後のこの時期になったのはなぜなのか。その理由の一つと考えられるのが、フロイトとラカンの間に登場した「一般言語学」です。フェルディナン・ド・ソシュールによって創始されたこの分野は、フロイトの議論を制約していたのとは異なった、言語を語るための新たな枠組みを提案するものであり、なかでもその議論の中で提示された「意味」に関する独自の観点は、「こころ」と「ことば」を外的に影響し合う二つの存在としてではなく、互いに結びついて同じ一つの構造をなすものとして見る見方を可能にするものでした。

 以上のような観点から、本セミナーではラカンの思想形成の過程で展開された言語をめぐる議論のうち、中期に集中的に論じられた「シニフィアン連鎖」と「欲望のグラフ」という二つの概念装置をとり上げ、それが言語学や哲学、数学などへの学際的な参照の中でどのように練り上げられていったかを概観した上で、それがそもそも人がなにかを「聴く」とはどういうことかという根本的な問いへの答えとして考案された抽象的な機械、「ラカン・マシン」と呼ぶべきものではないかという見方を提示し、これを糸口としてラカンの「言語」観について考えてゆきたいと思います。

岩波書店の『思想』3月号・6月号に連載した論文の最終回となる論文「悲劇・弁証法・トポロジー――ラカンによる「パスカルの賭」(下)」を同誌の7月号に発表しました。

思想 2022年7月号 – 岩波書店 (iwanami.co.jp)

 

 

岩波書店の『思想』3月号に発表した論文の続編となる論文「悲劇・弁証法・トポロジー――ラカンによる「パスカルの賭」(中)」」を同誌の6月号に発表しました。

思想 2022年6月号 – 岩波書店 (iwanami.co.jp)

次回最終回は7月号を予定しています。

下記のオープンセミナーを実施することになりました。4月13日〆切の要登録です。奮ってのご参加をお待ちしております。


 このたび、4月15日(金)に第62回オープンセミナー「ジャック・ラカンによる「人間」」を開催することとなりましたので、お知らせ致します。
 報告者の原和之先生(東京大学)、ディスカッサントの松本卓也先生(京都大学)はいずれも精神分析やフランス現代思想がご専門で、本セミナーではジャック・ラカン(特に初期・中期)における「こころ」の再規定および「人間」の捉え方の変化、といった点に焦点が当てられます。
 ご関心の方は、下記リンクよりぜひご登録ください。皆様のご参加をお待ちしております。

【第62回HMCオープンセミナー】
ジャック・ラカンによる「人間」
・日時:2022年4月15日(金)17:30-19:30
・場所:Zoomオンライン開催
・報告者:原 和之(東京大学大学院総合文化研究科 教授)
・ディスカッサント:松本 卓也(京都大学大学院人間・環境学研究科 准教授)
・主催:東京大学ヒューマニティーズセンター
・申込:4月13日(水)締切で、下記の様式でお申し込みください。
https://hmc.u-tokyo.ac.jp/ja/open-seminar/2022/62-lacan-on-humanbeing/

【概要】
精神分析家ジャック・ラカンは、第二次世界大戦後のフランスにおいて精神分析をその基礎から問い直すなかで、言語学、哲学、文学等さまざまな学問分野を参照しつつ新たな理論を提唱し、20世紀の人文思想に広い範囲で影響を与えました。精神分析が「こころ」を対象とし、これを「ことば」によって治療しようとする営みである限りにおいて、その問い直しのためには「こころ」と「ことば」のそれぞれを、あるいはそれら相互の関係を、従来とは異なった仕方で捉えるということが必要となっていました。

二回を予定している講演のうち初回の今回は、彼による「こころ」の再規定が、どのように「人間」を捉える捉え方に変更を迫ったかという点を考えてみたいと思います。ラカンは必ずしも「人間」を主題的に論じる思想家ではありません。彼の議論の中では「人間」よりもむしろ「主体」が問題にされるわけですが、こうした議論の焦点の移動を引き起こすに至った彼の思想形成の過程を見てゆくと、そこにはある一定の仕方で捉えられていた「人間」を根底から問い直すという契機があり、それが後期に現れる特異な「人間」概念──「人間(l’homme)」ならぬ「ニンゲン(LOM)」──にまで反響しているように思われます。

本セミナーでは、このうちラカンの思想形成の初期から中期、「こころ」の科学の認識論的基礎づけから「他者の欲望の欲望」の問題に、さらには「欲望の弁証法」に至る展開についての報告を糸口としつつ、彼の思想を出発点とした「人間」の多様なあり方の理論的包摂の可能性について考察します。

以下の論文を発表しました。

原和之,「想定」としての「構築」――「「分析」とは何の謂いか」への補遺,東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻紀要『Odysseus』,第26号(2021年),2022年3月,pp. 115-141.

2013年の拙論「「分析」とは何の謂いか――「分析」概念の歴史におけるフロイト」では、西洋思想史における「分析」概念の構成的な契機として、分割、遡行、想定の三つを区別し、これとの関わりでフロイトの「分析」概念に複数の局面を区別するという構想を提示しました。本論文では、そこで議論がやや手薄であった「想定」を核とした「分析」概念について、そのフロイトにおける具体的な実現を、彼の晩年の論文「分析における構築」に表れる「構築」の概念に求める議論を展開しています。

併せて「研究業績一覧」のページを更新しました。論文のPDF等へのリンクがありますので、ご関心の方はどうぞご参照ください。

雑誌『思想』(岩波書店、2022年3月号)に論文「悲劇・弁証法・トポロジー―ラカンによる「パスカルの賭」(上)」を書かせていただきました。連載を予定しています。https://www.iwanami.co.jp/book/b602061.html

 日本ラカン協会・東京大学大学院総合文化研究科原和之研究室の共催により、下記の研究会を開催しますので、どうぞ奮ってご参加ください。

 

・日時:11月21日(日曜日)17時から19時

・場所:オンライン(お手数ですが下記リンク先からご登録の上、送られてきたメールのリンクよりご接続ください)

https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZYpcO-urzopGNPjC9lCPt7PNpeRRyFlR50Q

・発表者:井上卓也(日本学術振興会特別研究員(PD))

・発表タイトル:主体の歴史と精神分析技法の成立:初期精神分析史の再検討にむけて

・共催:日本ラカン協会・東京大学大学院総合文化研究科原和之研究室

 

【発表概要】

主体の歴史と精神分析技法の成立:初期精神分析史の再検討にむけて

井上卓也

 

 フロイトは1895年の『ヒステリー研究』において、自らが提示する症例のテクストに学問的慣例から逸脱する特徴を認めている。すなわち、通常の病歴にはみられない「心的過程の詳細な描写」に踏み込むその記述は、文学的なフィクションに接近し、あたかも「小説のように読める」。他方、まさに「科学がもつ真剣みという刻印を欠いている」ようにおもわれるそのような主体の苦難の歴史(Leidensgeschichte)こそ、「局所診断」や「電気反応」などよりもはるかにヒステリーの理解に寄与するというのである。だが、精神分析が一見して客観性とは対極にあるこのような対象を扱うものだとすれば、19世紀末という時代において、その技法はいかにして認識的な価値と治療的な意義を備えた新たな科学的方法として提示されえたのだろうか。ましてフロイト自身の出自である当時の神経病理学が、もっぱら病変を神経系のうちに局在化し、客体化することに力を傾注していたのだとすれば?

  本発表では、1915年までの技法史を主題とする発表者の博士論文(De la catharsis au transfert : l’histoire du sujet et la formation de la technique analytique)の内容を補完しながら、このような問いに1)その理論的な背景および2)実践のより具体的なディスポジティフの展開、という両面から答えることを試みる。考察の出発点となるのは、かつてジャン・スタロビンスキが「反応の病理学」と名付けた、出来事や環境に対する主体の「反応」に精神疾患の原因をみてとる精神病理学的思想の系譜である。シャルコーの外傷ヒステリー研究に「反応の病理学」の大きな転換点を見出すグラディス・スウェインの見立てにしたがって、ここではまずシャルコー以降のフランス・ドイツにおける議論の展開を追いながら、複数の出来事による症状の規定、という『ヒステリー研究』の病因論を可能にした文脈を再構成する。さらに、一連の過去の経験が実際に症状形成に関与したことを検証するうえで、独自の「証拠」の体制が動員されたことを同時代の症例研究との比較から明らかにする。

 個人史の細部に分け入ろうとするこのような傾向については、初期の分析家たちのあいだでも評価が分かれることになるだろう。たとえば、幼年期の性的体験や空想の再構成を求めてしだいに長期化していくフロイトの治療に対し、シュテーケルは表面的な素材の象徴解釈を多用する短期間治療に傾いていく。またユングやプフィスターらスイスの分析家たちは、幼年期の性的体験の想起をリビードの退行によるたんなる遡行的な投影とみなしてフロイトの「歴史的アプローチ」に異を唱え、リビードを現実の課題に適応させる「教育的アプローチ」を掲げることとなる。ここでは1910年代のフロイトの技法的テクストをその「歴史的アプローチ」に最適化されたもの、すなわち転移を通じて過去の諸関係を自発的に浮上させ、患者の「確信」を生み出すための条件を示したものとして、当時の乱立する技法との関わりから読み直すことを提案する。 

以上

東京大学のサイト UTokyo Biblioplaza で、2019年に翻訳したバディウ『ラカン:反哲学3 セミネール1994-1995』の紹介文を書かせていただきました。こちらからご覧ください。