小文「「理論」の身分:ジャック・デリダ著『絵葉書II』の刊行に寄せて」について

水声社のメールマガジン「コメット通信」2023年1月号「デリダ・精神分析・記憶」に「「理論」の身分:ジャック・デリダ著『絵葉書II』の刊行に寄せて」と題した小文を寄稿しました。1月末日発行で、さしあたり会員限定ですが、後日ブログで公開されるとのことです。公開ページはこちらをご覧ください。

講演会「さまざまな結婚、カップル、精神分析家」開催のお知らせ

フランスの精神分析家ファブリス・ブールレーズ氏による下記の講演会を開催しますので、皆様のご参加をお待ちしております。

日時:2023年1月27日(金) 18時30分~20時30分(補足としてフランス語のみのセッションを20時30分から21時まで予定しています。)

場所:オンライン(要登録:下記よりご登録ください
https://u-tokyo-ac-jp.zoom.us/meeting/register/tZcsf-2qrT0oE93KZjfCzUcHfKsb4_w_041i )

タイトル:「Des mariages, des couples et des psychanalystes (さまざまな結婚、カップル、精神分析家)」

講師:Fabrice Bourlez(精神分析家/Ecole Supérieure d’Art et de Design de Reims 教授)

ディスカッサント:牧瀬英幹(中部大学生命健康科学部 准教授)

司会:原和之(東京大学総合文化研究科 教授)

言語:フランス語・日本語(同時通訳あり)

主催:科学研究費補助金 基盤研究(B)「結婚の歴史再考―フランスの事例からみる(ポスト)結婚、生殖、親子、家族」

『精神分析のゆくえ』刊行のお知らせ

小寺精神分析研究財団の学際的ワークショップがもとになった、藤山直樹・十川幸司編『精神分析のゆくえ:臨床知と人文知の閾』(金剛出版)11月初めに刊行されます。私も「精神分析の「幼年期の終わり」」という文章を書かせていただきました。目次等はこちらをご覧ください。

小寺精神分析研究財団・学際的ワークショップ(10/2)での発表のお知らせ

10月2日(日)の13時から17時まで、ハイブリッド形式で行われる小寺精神分析研究財団の「学際的ワークショップ『精神分析の知のリンクにむけて』」の第7回「21世紀のエディプス―われわれはまだこの概念を必要とするのか?―」にて発表を行います。演題は「《エディプス》と性別化、あるいは異なった手段による「幼児の性理論」の継続としての性差」を予定しています。ワークショップの詳細についてはこちらをご覧ください。

HMCオープンセミナー「ジャック・ラカンによる「言語」」(9/30)のお知らせ

4月に続いてHMCオープンセミナーの第二回目「ジャック・ラカンによる「言語」」を9月30日にオンラインで開催することになりました。HMCのサイトでも9月19日月曜日には情報が公開されるようですが、申し込み登録はチラシのQRコードまたは下記リンクからすでに可能になっていますので、どうぞご利用ください。皆様のご参加をお待ちしております。

———–

第83回HMCオープンセミナー「ジャック・ラカンによる「言語」」

【日時】2022年9月30日(金) 17:30-19:30

【場所】 オンライン (参加登録はこちら

【登壇者】

報告者:原和之(東京大学大学院総合文化研究科教授)

ディスカッサント:立木康介(京都大学人文科学研究所教授)

【概要】

 20世紀フランスの精神分析家ジャック・ラカンによる精神分析の再定義の試みは、その定義を基礎づけるより一般的な二つの概念、「こころ」と「ことば」の根元的な問い直しと共に進められてゆきました。このうち「こころ」の問い直しをとり上げた第1回に続き、第2回となる今回は、ラカンが「ことば」をどのように異なった仕方で考えようとしたかを見てゆきます。

 1950年代のフランスで、精神分析の新しい姿を提示すべき立場に置かれたラカンが、精神分析という営みの基礎をなすものとして注目したのが「言語」の次元でした。治療の中で言葉が持つ力については、精神分析の創始者であるフロイトがすでに繰り返し指摘していますが、それが主題化されるのがフロイト以後のこの時期になったのはなぜなのか。その理由の一つと考えられるのが、フロイトとラカンの間に登場した「一般言語学」です。フェルディナン・ド・ソシュールによって創始されたこの分野は、フロイトの議論を制約していたのとは異なった、言語を語るための新たな枠組みを提案するものであり、なかでもその議論の中で提示された「意味」に関する独自の観点は、「こころ」と「ことば」を外的に影響し合う二つの存在としてではなく、互いに結びついて同じ一つの構造をなすものとして見る見方を可能にするものでした。

 以上のような観点から、本セミナーではラカンの思想形成の過程で展開された言語をめぐる議論のうち、中期に集中的に論じられた「シニフィアン連鎖」と「欲望のグラフ」という二つの概念装置をとり上げ、それが言語学や哲学、数学などへの学際的な参照の中でどのように練り上げられていったかを概観した上で、それがそもそも人がなにかを「聴く」とはどういうことかという根本的な問いへの答えとして考案された抽象的な機械、「ラカン・マシン」と呼ぶべきものではないかという見方を提示し、これを糸口としてラカンの「言語」観について考えてゆきたいと思います。